大河ドラマ、「風と雲と虹」の藤原純友の痕跡が残る古三津の久枝神社かいわい!瀬戸内海賊の走り?

NHKの大河ドラマ「風と雲と虹」(初回視聴率は30%であった)で平安時代の中期に関東の平将門(加藤剛が配役)ともに時代の風雲児として描かれた瀬戸内海の海賊、藤原純友(緒形拳が配役)。

藤原純友の痕跡

実は松山市の古三津に藤原純友の痕跡が沢山残っているのです。

藤原純友公(893年~941年)
貴族政治の腐敗と庶民生活の圧迫に抗して政治の改革を目指して立ち上がった時代の先駆者であった。

藤原純友公が馬を立てたと言い伝えられている駒立岩

藤原純友公が使っていたと言われている井戸の跡

その他、純友公の乳母の墓である孀塚や重心の墓と伝えられている鬼塚が近くにあります。

藤原純友の乱

藤原純友は海賊の鎮圧を命ぜられましたが、自ら海賊を手懐け頭領となりました。
そして、腐敗した貴族社会の朝廷への不満から海賊を率いて反乱を起こしました。

藤原純友は1500槽の船団を率いたと言われています。
淡路、讃岐などの国府をおそい,大宰府も攻め上がった純友は一時は破竹の勢いでした。
しかし、朝廷の命を受けた小野好古(おののよしふる)らによって激戦のすえ太宰府の戦いで破れ、鎮圧されました。

しかし、庶民は純友の死を信じず大船団を率いて南方へ逃げたと噂されました。瀬戸内海でともに暮らして、時の権力者にも抵抗した藤原純友は伝説となり英雄視されたのです。

流れの複雑な瀬戸内海を縦横無尽に活躍した藤原純友は瀬戸内海の海賊や、水軍の走りだったかもしれませんね。

久枝神社とは

久枝神社の拝殿には絵馬が沢山掲げられている。

明治31年の絵馬は流石に絵が薄くなっている。

お賽銭は拝殿の裏の本殿に入れられるようになっています。

久枝神社の由緒
建武年間(1334~6)河野通盛が北条の河野郷を去って、本拠を道後湯築城に移した頃、河野家の武将、久枝肥前守宣盛の所領であったこの地へ、明治12年、古三津村の村民たちが厳島神社より住吉神社、岩崎神社、祇園社の3社を合祀して現在地に奉還し社名を久枝神社と称し奉る。